労使トラブル110番
賃金から「合意なき」控除は許されない
Q
従業員の採用にあたって、会社近くに転居させる必要があったため、引越に必要な敷金・礼金等の経費を会社が負担し、その分を給与から控除したところ、労働基準監督署から「経費負担分の返済は別途契約書を締結して行うべき」との是正指導を受けたのですが…
A
賃金の全額払いの原則
労働基準法第24条は、賃金の「直接払」「通貨払」「全額払」「毎月払」「一定期日払」の5原則を定めています。
ご質問の例で問題になっているのは「全額払」の原則からみて許されるのかということです。
「全額払」の原則の趣旨は、「労働者の賃金は、労働者の生活を支える重要な財源で、日常必要とするものであるから、これを労働者に確実に受領させ、その生活に不安のないようにすることは、労働政策の上から極めて必要なこと」(日本勧業経済界事件・最高裁昭和36.5.31)というものです。
「全額払」の原則によって、使用者は賃金の一部控除を禁止されていますが、例外的に許容されるのは、
①法令に別段の定めがある場合(税金、社会保険料等)、または②労使協定がある場合です。
もちろん労使協定によって控除が許される範囲も常識的な範囲に限られています(旅行積立、共済金などです)。
労働基準監督署は賃金の全額払の原則に反するとして是正指導をしているものと思います。
調整的相殺と合意ある相殺
一方、最高裁は、全額払の原則の適用範囲について、いくつかの重要な判断を下しています。
その一つは、調整的相殺の可否です。
調整的相殺とは、例えば、欠勤等の給与減額事由が発生したものの、給与支払期日に接近していたため、その月の給与は減額せずに支払い、翌月分から減額して支払うことです。
最高裁は、「実質的に見れば、本来支払われる賃金は、その全額の支払いを受けた結果とな」り、労働基準法24条1項の法意とを併せ考えれば、「その行使の時期、方法、金額等からみて労働者の経済生活の安定との関係上不当と認められないものであれば、同項の禁止することではない」としています(福島県教祖事件・最高裁昭和44.12.18)。
なおここでも時期が隣接していることや金額が多額ではないことなどの条件が付されていることに留意する必要があります。
もう一つの最高裁の判断は、使用者と労働者との合意がある場合の相殺が許される範囲についてです。
退職の場合は退職金等での一括返済の約定で会社・銀行から住宅資金を借り入れ、退職にあたってこれに従った手続きを依頼した事案である日新製鋼事件において、最高裁は「労働者がその自由な意思に基づき右相殺に同意した場合においては、右同意が労働者の自由な意思に基づいてされたものであると認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在するときは、右同意を得てした相殺は右規定に違反するとものとはいえない」としつつも、
ただし「右全額払の原則の趣旨にかんがみると、右同意が労働者の自由な意思基づくものであるとの認定判断は、厳格かつ慎重に行わねばならない」(最高裁平成2.11.26)としています。
「労働者の自由な意思」の判断
最高裁が「労働者の自由な意思」の認定は「厳格かつ慎重」でなければならないとしているように、形式に契約書等の書面があるからというだけで「自由な意思」といえるわけではありません。
大まかな判断基準は、
①同意の経過、労働者の同意の任意性・真意性を裏付ける状況証拠、具体的には相殺に関する説明の有無や、合意相殺の意思表示に係る書面等の作成が考慮されます。
②労働者側が同意相殺で受ける客観的利益も考慮されます。
例えば、本来会社が負担すべき福利厚生のための費用等については、合理的理由の存在が認められないでしょう。
同契約においては、使用者と労働者との間では非対等性、圧倒的に使用者が優位であるという事情が、ことさら慎重な検討を要すると判断する背景にはあるようです。
以上からみて、ご質問の例では、給与は給与で全額支払うこと、敷金・礼金等の会社負担の経費は別途返済契約を締結して支払わせるようにした方が良いでしょう。